命日が近づくと、時間がゆっくり流れるように感じられます。
季節がめぐり、またこの日を迎えるたびに、あの子の存在が今も心の中で生きていることを改めて感じる――そんな瞬間があるのではないでしょうか。


命日とは、悲しみを思い出す日であると同時に、「つながり」を確かめる日でもあります。
あの日からどれほどの時間が過ぎても、あの子の姿を思い浮かべると胸が温かくなったり、少し涙がにじんだりする――その気持ちは、今も変わらずに愛している証拠です。

秋は、そんな想いに静かに寄り添ってくれる季節です。
木々が葉を落とし、虫の声が遠ざかり、空が少しずつ高くなっていく。自然が次の季節の準備を始めるように、私たちの心もまた、何かを手放し、新しい何かを受け入れる準備をしていきます。

命日は、まさに心の“節目”。
悲しみの中にも、少しずつ穏やかな光が差し込み始める日です。
手を合わせるその時間は、過去に戻るためではなく、今と向き合うためのもの。あの子と過ごした日々を思い出しながら、「ありがとう」「また会おうね」と言葉を紡ぐことで、私たちは前を向いて生きていく力を取り戻していきます。

季節のめぐりは、命のめぐり。
散っていった葉が土に還り、やがて新しい芽を育てるように、別れは決して終わりではありません。
姿は見えなくなっても、愛した記憶は心の中に根を張り、日々の暮らしの中で新しい形をとって生き続けているのです。

命日を迎えるたびに、私たちはあの子との関係を少しずつ“育て直して”いるのかもしれません。
最初の頃は「どうしていなくなってしまったの?」という喪失の涙が流れます。けれど年月が経つうちに、「あの子がいてくれたから今の自分がある」と思えるようになっていく。
それは、悲しみの先にある“感謝”というやさしい感情への変化。命日はその“心の成長”を感じる日でもあるのです。

手元に残った首輪、写真、毛の一本。どれも小さなものですが、見るたびに心が動きます。
それは過去を思い出す道具ではなく、「今も一緒にいる」という証です。
供養とは、忘れないことではなく、“共に生き続ける”こと。命日という一日は、あの子との“共生”を改めて感じる大切な時間なのです。

今年もまた、季節がめぐってこの日がやってきたなら、どうか自分を責めずに、心をやさしく解きほぐしてあげてください。
「まだ泣いてしまう自分」「笑ってしまう自分」――どちらも正解です。悲しみも笑顔も、すべてあの子への愛のかたち。

お花を供えるのもよいでしょう。温かい飲み物を用意して、ゆっくりとあの子に話しかけるのも素敵です。
「こんなことがあったよ」「あなたがいなくなってからも、ちゃんと頑張ってるよ」と報告するように語りかけてみてください。きっとその声は、風に乗って届きます。

秋の夕暮れ、少し冷たい空気の中で見上げる空。
そこに浮かぶ雲の形や、淡い光の色の中に、あの子の面影を感じることがあるでしょう。
それは偶然ではなく、あの子が“今も見守っている”という合図。

季節がめぐるたびに、私たちは少しずつ変わっていきます。悲しみがやさしさに、涙が祈りに、祈りが感謝に変わっていく。
命日は、その流れの中で心が一段深くなる瞬間です。

だからこそ、どうか焦らずに。
悲しみが癒える日を無理に作ろうとしなくて大丈夫です。
季節が自然に変わるように、心もまた自然に癒えていきます。

秋の静けさの中で、そっと手を合わせましょう。
「ありがとう。これからも一緒に生きていくね」
その言葉を口にした瞬間、あなたの心の奥で何かが温かく灯るはずです。
それは、あの子の魂がそっと寄り添ってくれている証。

季節が教えてくれる“めぐり”の意味――それは、別れの中にも続いていく命の流れがあるということ。
そして、あなたが今日も生きているという事実そのものが、あの子へのいちばんの贈り物なのです。